NO.235 プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(The Protestant Ethic and the Spirit of Capitalism)では、述べられていなかった事 ・・・僕は、マックスウェーバーの仕事を引き継ぎます
禁欲的プロテスタントの行動目的は、予定説(Predestination)の恐怖から解放される事
ローマ人への手紙(Epistle to the Romans)のテーマは、予定説(Predestination)
社会学者の小室直樹先生は、キリスト教の原理は予定説(Predestination)であると指摘しました。予定説(Predestination)は、新約聖書のローマ人への手紙(Epistle to the Romans)のテーマです。
新約聖書には、最後の審判の時に、人類の大多数の者達が永遠の死に定められて、ごく少数の者達だけが救済(Salvation)に定められると預言されていま,す。
ローマ人への手紙では、全ての人間の永遠の死と救済(Salvation)への選別は、天地創造の以前に神様が決定したと記されています。すべての人は、その人が永遠の死に定められているか、救済(Salvation)に定められているかは、天地創造の以前に既に神様により決定されている。この決定は変更不可能である。永遠の死に定められた人間は、いくら善行を積んでも救済(Salvation)される事は無い。
そして、この天地創造の以前に神様により為された決定は、人間は決して知る事はできない。
これが予定説(Predestination)です。
この予定説(Predestination)は、禁欲的プロテスタントにとって、途轍もない恐怖でした。禁欲的プロテスタントは、この予定説(Predestination)の恐怖からの解放を求める衝動に支配されました。この衝動に支配されて行動を選択する事が、禁欲的プロテスタント達の行動原理となりました。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(The Protestant Ethic and the Spirit of Capitalism)には、禁欲的プロテスタントの予定説(Predestination)に対する恐怖の様子が描写されています。
禁欲的プロテスタントの職業倫理
カルヴァニズムにおける職業倫理について。小室直樹先生の解説です。
カルヴァンは、職業労働に従事する事が、神様による命令であると、聖書を解釈しました。
人間は、職業労働に従事しなければならない。その目的は、神様の栄光を高める事にある。そして、職業労働に従事する事は、その人の救済とは、一切関係が無い。これが、カルヴァンによる聖書の解釈でした。
ちなみに、人が安息日に教会で礼拝する事も、目的は、神様の栄光を高める事です。人が教会で礼拝を行う事は、その人の救済(Salvation)とは一切関係が無い。
カルヴァンの後の時代のプロテスタント達は、職業労働に、その人が救済に定められている証拠を見つけ出そうとした。そして、次の解釈に至った。
「職業労働に従事する者が、職業労働により利益を得られるのならば、その者は、救済に定められている。」
そして、次のように解釈した。「職業労働で利潤を得る事は、神様の栄光を実現させる事である。その利潤は、神様のものであって、その人のものでは無い。人は、神様の栄光を高める為に、職業労働で得られた利潤を管理し、より大きな利潤を得る努力を続けなければならない。」
ここに、職業労働による利益追求が、倫理的に肯定されました。
禁欲的プロテスタントの職業労働における行動目的が設定されました。禁欲的プロテスタントは、予定説(Predestination)の恐怖からの解放を求める衝動に精神を支配されて、この目的実現の為に行動することになりました。
禁欲的プロテスタント達は、予定説(Predestination)の恐怖から解放される事以外の、一切の関心を持たなくなった。禁欲的プロテスタント達は、他の全てに優先させて、予定説(Predestination)の恐怖から解放されるために行動した。
禁欲的プロテスタントは、それまでの社会の伝統や習慣を排除した。これらが、職業労働における利潤追求の障害になった為です。
マックスウェーバーは、「人間の行動様式(Behavioral pattern)が、歴史上ただ1回だけ、根本的に変革された。」と指摘した。小室直樹先生は、そう解説した。
「特定の目的の為に、その人の全ての人格と行動を、目的合理的に再構成する事。」この行動様式(Behavioral pattern)の根本的変革が、歴史上、唯一実現されました。
禁欲的プロテスタントは、予定説(Predestination)の恐怖から解放される為に、心の奥底からの衝動に支配されて、目的実現の為に、すべての人格と行動を目的合理的に再構成した。
この事が、産業革命を実現させ、そして世界規模での社会構造の再構築を実現させた。世界全体に、近代社会が成立した。
これは、歴史上唯一の社会革命です。マックスウェーバーは、プロテスタンティズムを、歴史上唯一の革命思想であると指摘しました。
禁欲的プロテスタントは、何故、カルヴァニズムの教義を変更する事ができたのか?
カルヴァンは、天地創造の以前に神様が為した予定(Predestination)は、人間には知る事ができないと、聖書を解釈した。
しかし、後の時代の禁欲的プロテスタント達は、神様の予定(Predestination)は、人間が知る事が可能であると解釈した。
「職業労働で利潤を得る事は、神様の栄光が実現された事であり、職業労働に従事した人が、救済に定められている証拠である。」
カルヴァンの後の時代の禁欲的プロテスタントは、そのように解釈した。神様の予定(Predestination)を、人間は知る事が可能であると、解釈した。
マックスウェーバーは、プロテスタンティズムについて、何故、このようなは教義の変更が可能だったのかについては、言及していないようです。多分、彼には、十分な時間が無かったのでしょう。
マックスウェーバーは、聖書の解釈にについても、言及していなかっただろうと思います。
聖書の思想がなければ、歴史上唯一の世界情勢の革命的変革は、あり得なかったでしょう。
聖書は、歴史上稀有の天才の知性による書物です。間違い無いでしょう。説明しましょう。
欧米社会の最高の知性の人達が、神の存在問題を最大のテーマにしてきました。「私の精神を、恐怖でここまで追い詰める神とは、一体何なのだろうか?」これが、この人達の、最大の問題意識だったはずです。
この人達が、神の存在の否定を証明するに至っていれば、キリスト教は、終焉していたでしょう。
マックスウェーバーは、予定説(Predestination)に対する恐怖の為に、聖書の解釈に立ち入れなかったのだと僕は思います。
彼は、聖書の思想を、誰よりも深く理解していたはずです。
禁欲的プロテスタントは、カルヴァニズムの教義を変更した。このことが可能になった理由は、禁欲的プロテスタント達が、その人自身で、聖書を解釈しようしとし続けてきたからでしょう。
聖書の記述は真実である。しかし、人間は、聖書の解釈を誤る可能性は、常に存在する。カルヴァンやルターの教義も、彼ら個人の聖書の解釈である。
禁欲的プロテスタント達は、予定説(Predestination)の恐怖からの解放を求める衝動に支配されて、聖書の記述に希望を探し続けてきたはずです。
禁欲的プロテスタント達は、先人達が行なった解釈に、いくつもの疑問を見つけ出してきたはずです。
禁欲的プロテスタント達は、先人達が行なった解釈を、変更し続けてきました。
禁欲的プロテスタント達は、何故、経済を市場原理に委ねるのか?
現在、禁欲的プロテスタント達は、経済を市場原理に委ねなければならないと考えている。そして、経済が市場原理に委ねられた状態で、職業労働により利潤が得られることは、神様の栄光の実現である。そして、その人が救済に定められている証である。禁欲的プロテスタント達は、そう結論しています。
説明しましょう。
神様の栄光は、宇宙の法則に従った現象が進行した結果により生起する。これは、禁欲的プロテスタント達が、現時点で得ている結論です。
キリスト教における奇跡について。奇跡とは、決して起こらないことが生起することである。奇跡とは、宇宙の法則を否定する現象である。奇跡の生起は、宇宙の法則が変更された事を意味する。宇宙の法則を変更し得る存在は、神様だけである。従って、奇跡の生起は、神様の力が働いた証である。
しかし、新約聖書の福音書には、「人間には奇跡は決して与えられない。」と明記されている。
日本語版の聖書には、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしの他には、決して与えられない。」と記述されている。
宇宙の全ての現象は、宇宙の法則に従って進行する。キリスト教が人間に要求する事は、科学的合理主義精神です。
神様は、神様の目的を実現させる為に、天地を創造した。神様の栄光は、宇宙の法則に従った現象の進行の結果実現する。神様は、そのように天地を創造した。
全ての結果は、天地の創造の以前に、全て予定されていた。宇宙の全ての現象は、神様の計画に従って進行し、神様の目的を実現させる。
禁欲的プロテスタントにとって、経済を市場原理に委ねる事は、経済を宇宙の法則に従った現象に委ねる事でしょう。
そして、その状態において、職業労働の結果として利潤が得られることは、神様の栄光が実現する事であり、職業労働に従事した人が救済に定められている証拠であると解釈したのだと、僕は思います。
三位一体説(Trinity)を前提としない禁欲的プロテスタンティズムは、究極の革命思想となる。
カトリックのみならず、カルヴァンやルターの教義も、三位一体説(Trinity)を前提としています。
しかし、聖書を自分自身で解釈する禁欲的プロテスタントは、三位一体説(Trinity)に疑問を持つだろうと、僕は思います。
子(イエスキリスト)と聖霊は、神の範疇に所属します。ただ、子(イエスキリスト)と聖霊は、天の父の計画を知らない。新約聖書の福音書に、イエスキリストの言葉として述べられている。
父と子と聖霊は、完全な同一では無い。
三位一体を前提とすれば、新約聖書の記述は、神様の最終的な意思となる。三位一体でなければ、新約聖書の記述は、神様の最終的な意思では無い。
三位一体でない事を前提にして言及します。
イエスキリストも聖霊も、その時に、人間が知る事を許されることだけを人間に伝えている事になる。
ヨハネの黙示録(Apocalypse of John)。天使が使徒ヨハネに幻を見せて、未来に起こる事を示唆した。神様は、必ず実現する事を人間に伝える時には、神様の名前を宣言する。神様の栄光の為にです。
天使が幻の中で未来を示した事は、その内容が、神様の最終的な意思では無い可能性が示唆されます。そのように解釈され得ると、僕は判断しています。
三位一体説(Trinity)を前提とすると、予定説(Predestination)の恐怖は絶望的でしかない。しかし、禁欲的プロテスタントは、希望の可能性を見つけ出そうと、聖書を解釈します。
三位一体説(Trinity)を前提としなければ、未来の新たな希望の可能性を信じる事が可能となります。
今は、人間は、全てを知ることは許されてはいない。人間が未来に知ることに定められている真理は、今は封印されているのかも知れない。
いつか神様の計画に従って、神様の真理の封印が解かれる時が来るかも知れない。この事に、は禁欲的プロテスタントは、希望を持つことが可能となる。
神様の新しい真理の封印が解かれる時、世界は、新しい法則に支配されるかも知れない。
古い法則の時代が終わり、新しい法則の時代が始まる。これは、究極の革命思想になるでしょう。
ちなみに、キリスト教の信仰の基本は、神様を恐れる事だと思います。ニネベの町の人々は、ヨナ(Jonah)の宣教により神様を恐れた。神様に刑罰を与えられる事に恐れ慄いて、赦しを乞い求めた。
ニネベの町の人々は、ヨナ(Jonah)の予言が外れて滅びなかった。その為に、ヨナ(Jonah)を嘲笑った。ニネベの町の人々の心は、清らかになっていなかったように思えます。ニネベの町の人々は、ただ、神様を恐れました。
「ニネベの町の人々は、ヨナの宣教により悔い改めたから義とされた。」イエスキリストは、そう述べたと福音書には記述されています。
禁欲的プロテスタントは、神様に対する恐怖の為に、全ての行動を決定します。
この事が、神様の計画に組み込まれているのでしょうか?「見えざる神の御手に導かれて。」と言う事でしょうか?
禁欲的プロテスタント達は、この事を信じるでしょう。プロテスタンティズムは、これからも、世界情勢を動かすでしょう。そして世界情勢を根本的に変革する事も起こり得るでしょう。
参考記事
このGoogle Blogger ブログの同一テーマの複数記事を要約するコンセプトで、はてなブログに記事を掲載しています。
今回の記事は、次のはてなブログ記事の詳細説明に該当します。
今回の記事は、禁欲的ブロテスタントの行動様式の分析に特化して書きました。
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