NO.016 私は、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神を理解できます。アメリカの科学的合理主義精神を分析します。 小室直樹先生は、アメリカの科学的合理主義精神を、宗教のネガだと言われました。 ・・・ テーマラベル : プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 カテゴリーラベル : 宗教社会学、Protestantism
私は30年以上前、社会学者の小室直樹先生から、アメリカ人の4割近くが、聖書の記述をそのまま信じるファンダメンタリストであり、宗教国家である事こそ、アメリカの本質であると聞きました。
小室先生は、アメリカの科学的合理主義理性は、宗教のネガであるとも言われました。
宗教社会学は、キリスト教社会と、イスラム社会の間の問題を解決する為に、有益であるはずです。
私は、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神を理解できます。ウェーバー研究の歴史は、誤読の歴史であると聞いた事があります。
ただ、時の流れとともに、理解は、深まっているはずだと思っています。
宗教改革に始まった社会革命は、現在も継続していると考えますから。
個人が聖書を自分自身で解釈する事により、個人の行動様式が再構成される。そして、それにより社会の本質が再構成される。これをマックスウェーバーは、社会革命と呼称したと理解します。
個人が、聖書の解釈を深めてゆくに従って、社会革命は進行してゆくと理解します。
この書物は、新約聖書を、論理的に徹底して解釈すれば理解できると思っています。
私は、聖書の破天荒な思想を生み出した知性は、どんな天才なのだろうと思います。
「聖書は、神様の霊により記されたものですよ?」と言われたら、「それなら納得できる。」と思ってしまいます。
過去の傑出した知性とされた人々にとっても、同じだっただろうと思います。この事は、人々の心に対する決定的な支配力になっただろうと思います。
プロテスタンティズムにより、人々の行動様式を根本的に変革させた心的機動力は、予定説の恐怖から、何としてでも解放されたい衝動と理解します。
予定説 : ローマ人の手紙のテーマと理解します。
その希望は、存在が可能だったと言う事ですね?
被造物である人間には、神様の御心を測り知る事は出来ない。聖書の真理も、人間には、正しく理解できない。裁いてはならないと、命ぜられている。他人を罪に定めるなと、命ぜられている。
ある者の聖書の解釈が罪であると、裁く事は許されていない。
人は、自らの良心に従って、一人一人が聖書を解釈しなければならない。神様は、人間の弱さを、よくご存知である。ここに、寛容の余地が生まれると思います。これは、私の考えです。
神様は、人々を哀れむ為に、不服従の中に閉じ込められた。神様は、溢れるばかりの憐れみを注がれる為に、人々を無力な存在として創造された。これらの記述は、人々に、救いの希望を与えてきたはずです。
アメリカのプロテスタントは、我が子に、繰り返し聖書を読ませて自分自身で解釈させると聞きました。
ルターやカルヴァンの教義は、彼ら自身の解釈です。教会での説教も、同様。自分自身で解釈すると、教えられたものとは違う解釈になり得ます。
三位一体説を前提とする教義は多いと聞きます。「その時がいつか、子も知らない、聖霊も知らない。天に居られる父だけが知って居られる。」と記されています。
子も聖霊も、父の計画にあずかる事はないと解釈されます。
三位は、一体でないのかも知れない。
集合論で考えましょう。創造者と被造物の二つの範疇を考えます。子も聖霊も、創造者の範疇に所属します。しかし、創造者の中の、部分集合に所属すると解釈します。
指摘しておきたい事は、自分自身で解釈しようとすれば、私が今述べた解釈と、同じ解釈をする人たちは、必ず居るでしょう。
三位が一体で無ければ、新約聖書の記述は、神様の最終的な御心では無いのかも知れない。
新約聖書は、今の時点で、神様が人間に伝えられる事を許された事だけが記されているのでしょう。
今の時点が人が知る事を許されていない、希望の封印が解かれる可能性があるのかも知れない。
職業労働は、神様の命令であると言う教義は存在すると聞きました。
職業労働で得られる利益は、自分が神様の救いに定められている証拠であると解釈する余地が存在していると言う事でしょう。
職業労働により得られる利益は、神様に授けられた祝福と言う事でしょう。人は、全知全霊を傾けて、神様の祝福を得なければならない。今までの慣習や欲望などに妨げられてはならない。自らの全人格を再構築して、目的合理的に、神様の祝福を得なければならない。
これを実現させる心的起動力が、予定説の恐怖から解放される事を欲する衝動です。
宗教改革に始まった社会革命は、現在も継続しているのかも知れません。
近代の科学的合理主義精神は、プロテスタンティズムにより人々の心にもたらされた行動様式の一側面と考えます。
プロテスタンティズムが存在していなければ、不確定性原理や量子力学は、生まれなかったと思います。
ギリシャ哲学は、事物を、「存在する。」「存在しない。」の二分すると聞きます。
存在するのでも無ければ、存在しないのでも無いと言う発想は、プロテスタンティズムの理性によるものと思います。
「神の奇跡。」について、聞きました。神が天地を創造された。宇宙の法則もまた、神が創造された。この宇宙の法則の変更を為し得る方は、創造者のみである。奇跡とは、宇宙の法則が変更された事であり、神の力が働いた証である。
ここで、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしの他には、決して与えられないであろう。」と記されています。つまり、神様は、人間に奇跡を与えないと述べられていると言う事でしょう。即ち、宇宙で生起する全ての現象は、科学で証明できると言う事です。
クリスチャンである科学者の、科学の探求は、自らの信仰を証する事なのだと思います。その科学者は、「私の心をここまで追い詰める神様とは、一体、どう言う方なのだろう。」と言う意識を持つのでしょうね?
「許されるならば、神様の創造された宇宙の真理を少しでも知りたい。」
アメリカの進化論裁判は、一つの歴史的意義だったでしょう。「神様は、天地創造の証拠を、人間が知る事をお許しにならなかったはずだ。
神様は、天地を、人間が猿から進化したように見えるように創造されたはずだ。」
このように解釈する人達は、必ず、実在しているはずです。
「目の前に見えている事が、必ずしも真実とは限らない。」この発想が、存在していると思います。
「大宇宙は、5分前に創造された。この宇宙創造が、繰り返され続けている。」
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